原辰徳が長嶋茂雄になった――。
楽天からトレードで獲得したゼラス・ウィーラーが6月30日、チームに合流。フリー打撃で快音を連発した。それを見ていた巨人の原監督は記者らと談笑、「やる気満々だね。大変な戦力になってくれる。水を得たフィッシュのごとくね」と上機嫌で話したという。
思わず吹き出してしまった。「人生はギブアップだ」「ほっといてください。僕にもデモクラシーがあります」などと珍言・迷言の名人だった長嶋の領域に少しは近づいたか。何を聞かれても、「我が巨人軍は」と引退セレモニーの長嶋の言葉で話し始めるのが癖の若大将が、珍言の類でマスコミに応対した。リップサービスが上手くなったようで何よりである。
巨人ファンをやめて半世紀だが、原辰徳だけは変わらず応援してきた。というのも、同じ郷里で、ほぼ同世代だからだ。父・貢が三池工業を指揮して夏の甲子園で初出場初優勝したのが1965年。そのとき小学4年だったが、野球少年だった私はすべての福岡県人同様、熱狂した。
その2年前に、三池工業がある大牟田市で三池炭鉱の大爆発事故が起きた。折しも炭鉱では大争議が起きていて、「総労働対総資本」といわれるほど労使対立が激化。国内の政治勢力を二分する闘いが続いていた。子どもだった私はそのことを覚えていないが、三池工が凱旋した折は、隣町に住んでいた私の近所でもざわついていたのを覚えている。
そのころ原辰徳は小学1年生だったはずだが、親父が東海大相模野球部監督に請われて転任。辰徳も後年そこで1年から主軸を打った。原をまじかに見たのは、東海大に進んだ1978年。神宮で行われた日米大学野球選手権だった。この年は、日系2世の投手でハワイ大学のデレク・タツノが速球王として立ちはだかった。
原は全日本の4番として活躍した。神宮球場での試合終了後。バスに乗りかける原に向かって私は叫んだ。
「原っ、頑張れよ!」「ハイッ!!」たったそれだけのことだが、今もなお、鮮明に覚えている。ほかに西武の石毛(駒大)、阪神の岡田(早大)、西武球団社長の居郷(法大)らの顔も記憶にある。
なにかとお騒がせなハラタツ。今度は賭けゴルフで書き立てられたが、この男ばかりは憎めない。いつまで経っても笑顔が爽やか。まあ、年相応に悪いこともしてきただろう。しかし、福岡で育った数年間は、みなと同様貧しく生活してきた。いわく言い難いが、同世代意識が取り持つ共感があるのだ。
最近、言うことが説教じみてきているが、フィッシュなど軽口を叩けるうちは可愛いものである。巨人の看板に拘るのは好きでないし、名監督の器でもないが・・・・。